チーム・カノバの岡崎です。
今回は、最近読んだ本の内容から「居場所」について書いてみます。
居場所がほしい――不登校生だったボクの今 著者:浅見 直輝
「居場所がほしい」
岩波ジュニア新書から2018年9月に出版された新書本。
私は、岩波ジュニア新書が結構すきです。理由は、中高生向けの新書のため平易な言葉で書かれていて読みやすいからです。(笑)
さて、この本の内容ですが、著者自身が不登校だった経験から書かれた「居場所」についての本です、体験談が多くとても説得力があります。
人は、どんなことがきっかけで不登校になるのか?
不登校を経験したことがない自分としては、やはりどこか理解できない感覚でしたが、この本では
それが起こる瞬間の出来事がリアルに書かれていて、「なるほどー、それはわかる」と、とても参考になりました。
「居場所」とはなんだろうか?
場づくりをやっていると、必然的に「居場所」の大事さについて日頃から感じています。ただ実際、なぜ居場所が大事なのだろう?
…ということを考えると、なかなか簡単ではないわけです。
でも、この本をよむと居場所がなぜ大事なのかということがよくわりました。
とりわけ「世界は広い」ということを知らいない子供にとって、居場所とがないということは、自分が存在できる世界そのものがない、くらいに重大な事件なのだということです。
そして、なぜひきこもりの人は、ゲームや二次元に逃げる・没頭するのか?
ということも理解できました。著者は一時期、学校に行かずにゲームばかりしていたということですが、これも「居場所」で説明ができます。
その理由ですが、それは「ゲームをしている時間は、学校や家での居場所がないということを忘れられるから。」
なので、実際はゲームが好きでゲームをしていたのではなかったということです。
現実世界に居場所がないからこそ、ゲームの世界に居場所を求めて、そこに逃げることでどうにか自分の存在を認め、生きている実感を得ることができるというセーフティーネットとしてゲームとか二次元の世界が機能しているということなのです。
端から見ると学校にも行かずにひきこもって部屋でゲームばっかりして、というふうに見えるかもしれません。ただ、それはそれで本人も好きでやっているわけでもないわけです。自分の居場所を求めている、という視点でみると、その行動も違って見えます。それは単にゲーム好きということではなくて、自分の存在してもいい場所を求めてのやむにやまれぬ行動というふうに・・。
説教はなぜ嫌われるのか?
本の途中で、不登校の子どもたちが会話を嫌がる・心を閉ざすときの共通点について書いてあります。それが、
「○○くん、学校どうするの?」
という話や、
「ちゃんと、○○したほうがいいよ」
という話をされるときとのことです。
え?それのどこがいけないの?と思われるかもしれません
大人にしてみれば、それは、「私があなたを気にして心配してあげている」という善意の声かけだからです
ただこれはなんとなくわかります。私も上の方からお説教されるのが基本的に好きではので、それと同等かなと・・・
ようするに、これは大人の「学校は必ずいくべきである」という価値観を子供に押し付けているという構図です。
年長者の説教が嫌われるのは、それが価値観の一方的な押し付けだからでしょう。
さらに、この場合は、押し付けにとどまらず「学校に行っていないあなたは間違っている」という非難や攻撃のメッセージとして子供を責めることになります。大人としては善意とか愛情から言っているつもりが、子供にとっては自分への攻撃として受け止められてしまうということが起こるわけです。これは両者にとって悲しいことです。
親や周囲の大人もつらいですが、特に子供にしてみると、これはとてもつらいはずです。
なぜなら本人としても、もちろんそんなことはわかっているわけで、それでも学校に行けないという自分を自分で責めているはずですから。さらに、親や周囲の大人からも日々責められたら、どこかに逃げたくなったり反発したりしたくもなるわけです。
そして、実はよく考えてみたら、そもそも「学校はいくべきである」ということ自体が絶対に正しい「正解である」とも言えない世の中になってきています。
とすれば、そもそもそれが正解かどうかもわからないことで子供が学校でも家でも「居場所」を失い自分の存在を認められず、自らの状況を不幸と感じてしまうというのはいろいろな意味で不毛です。
世の中の「閉塞感」はどこにあるのか?
居場所とはなんだろう?ということを、この本を読んでみてあらためて考えました。
それは、
居場所とは、自分の価値観や大事に思っていることが否定されず、
その人をありのまま・そのまま受け入れてくれる場所
なのではないか?ということです。
そうした居場所にいるとき、人は
「自分はここにいていいんだ」「このままの自分でいいんだ」
ということを実感し、自分の存在を自分で受け入れ、認めることができます。
そうした場所が一つでもあるときに、今度はそこから何かしらの挑戦する気持ちも生まれてくるはずです。
実際、この本の中にも、
というエピソードがでてきます。
周囲の大人は「○○ちゃん、変わったねー」と驚いたそうです。しかし真相はその女の子が急に変わったのではなく、これまで自分が表現できる舞台(場)がなかっただけなのです。
つまり子供に必要なのは、大人の価値観や評価軸にあわせて「いい子」に変えようとすることではなく、そのままのその子の性質や欲求を受け止めて、その子が表現したいことが表現できる舞台(場)を用意してあげることではないでしょうか?
「日本には閉塞感が漂っている」という話をときどき耳にします。
それを聞くたびに「本当にそうだろうか?」と思うんです。なぜかというと自分はそんな「閉塞感」なるものをまったく感じていないからです。
そして、なぜ自分は感じていない「閉塞感」を、世の多くの人たちは感じているのだろうか?
…ということについて考えたところ、自分なりに一つの結論が浮かんできました。
それは思うに、「閉塞感」は世の中にあるのではなくて、その人それぞれの置かれた環境にあるのではないだろうか?
ということ。そして、そうした「閉塞感」を感じている人は、
自分が自分らしくいられる居場所・つまり、自分を受け入れてくれる場所がなくて、いっしょに何かに挑戦する仲間がいないのではないか?
つまり、日本に漂っているとされる閉塞感の正体は、自分が輝ける居場所がないという話なのではないだろうか?
それぞれが自分らしく居ることができて、さらにそこからなにかに挑戦できるような居場所があれば、「閉塞感」は、決して生まれることもないでしょう。
カノバが目指している「可能性を開く場」とは、そういう場のことだと思うのです。
まずは、その人がそのままの姿で受け入れられつつ、そこに仲間ができ、さらにその先の挑戦も仲間とともにやっていけるような雰囲気のある場
それこそが、人の可能性を開く場になるだろうと。
(チーム・カノバ 岡崎)