問い担当の岡崎です。
さて、今回は「偶有性」というものについて書いてみます。
カノバが大切にしているキーワードに「偶有性」というものがある。
「偶有性」。そう、ぐーゆーせー。である。
なんだそれは?と思われた方もいるだろう。
私も最初はそうおもった。なんじゃそりゃーと。自分が最初に出会ったのは、脳科学者の茂木健一郎さんの本から。
「偶有性」は「偶然性」とどうちがうか?
この「偶有性」(ぐうゆうせい)は、「偶然性」(ぐうぜんせい)と似ている。
けどもやはりちがう。
この二つは、どこがどうちがうのか?
偶然性とは、例えば、人の多いまちなかで偶然、小学校の同級生に会う。とか、ふと目にした腕時計が10時10分10秒だった、ラッキーこれは誰かにいいたいぞ、とかそういう場面で使うコトバだ。
その一方で、偶有性とはなにか?
それは、例えばまちなかで偶然、小学校の同級生に会う「可能性がある」、ということであり、ふと腕時計に目をやったときにそれが10時10分10秒である「可能性がある」ということである。
え?可能性がある?それだけ?だからどうしたの?と思うかもしれない。
確かに、可能性という意味ではどんな可能性でもあるわけで、まちなかで同級生でなくてもローラちゃんにだって、宇宙人にだって会う可能性はあるわけだ。
そういう意味で、この偶有性という単語にそもそもの存在意義があるのか?ということになる。
確かに、この偶有性という言葉自体はたんに当たり前のことを言っている。
けれども、わざわざこのコトバを使うことで感じられる世界がある。
「偶有性」がある生活とは?
「偶有性」というコトバによって、いろいろな起こりうる可能性が詰まった世界の状態についてのイメージしやすくなる。
逆に偶有性のない状態とはどんな状態か?
例えば、私がアマゾンで本を買うとする。
それが数日以内に家に届くということについて偶有性はゼロと断言してもいいだろう。注文したものが1年後に届くとか、隣の家の人宛に届くという可能性はない。
あるいは、その買った代金が翌月にクレジットカード払いで銀行口座から引き落とされるということについては偶有性というものは微塵もない。間違っても、アマゾンが請求を忘れてくれるということはありえない。これもは偶有性はない状態といえる。
話はもどるけども、カノバでは偶有性を大事にしたい。それはなぜか?
偶有性というのは可能性であり、可能性がある世界というのは面白みがある世界だと信じているから。
実は、私は茂木さんの本を読んでからおそらく10年くらい、日々の生活のなかで偶有性を意識して生活してきた。
例えば、図書館で普段読まないような本を借りてくるとか、本に書いてある面白そうなことを試してみるとか、今まで行ったことのない新しいお店にとりあえず入ってみるとか、誘われたイベントには興味なくても行ってみるとか、頼まれたことでできることはやってあげるとか・・・・・
ささやかなことではあるが、やっているとたまにすごく役に立つ情報や、思いがけない面白い出会いといった良い意味での偶有性に出会いやすくなる実感がある。
もともとはあまり外に出ないし、人にもあまり会わないような生活をしていた自分が、気がつくとファシリテーターをやっていたり、こうしてカノバという団体を立ち上げたり、といったことになっているのはそもそも「偶有性」による鍵となる人との出会いがキッカケになっているのは間違いない。
ここまで書きながら分かったことは、良い偶有性のなかで生活するというのは、喩えて言えば、治安が良くて、魅力的な人が多く住んでいる地域に住むことに似ているのでは?ということ。
そういう地域に住めばやはり魅力的な人に知り合い、面白いチャンスに巡り合う可能性が高いだろう。
反対に、悪い偶有性のなかで生活するということは、治安が悪い、あまりつきあいたくない人が多く住む地域に住むということだ。
そういう地域に住めば、やはり不運やトラブルに巻き込まれることも多いだろう。それは単に運が悪いというよりも、意図せずにしてもその地域を選んだということに原因があったということだろう。
カノバでは、そんな良い偶有性をたたえた場をつくっていきたい。
カノバの目指す場とは?
カノバの目指す、「偶有性のある場」というのは「いろんな良い可能性がある場」ということであり、それはもちろんいい意味での可能性である。セレンディピティーが起こる場といってもいいかもしれない。
例えば、「そこで出会った人同士で仲間になって新しいことをはじめることになる」とか
「その場に来なければ出会わなかったような人生に衝撃を与えるような人に出会う」とか
「新しい考え方に触れて価値観が転換するとか」とか、
つまり、人と人との化学反応的な、何か・・・・。
そんな「偶有性のある場」をカノバは意識的、無意識的に、創りたい。
意識的にねらって創ると、わざとらしかったりあざとい感じもするかもしれないので、できれば無意識的につくって、あとから考えるとアレはそういう場だったね。みたいなことが言えるような感じになりたい。と思っている。
「トイノバ」にちりばめた偶有性
チーム・カノバが行っている対話の場「トイノバ」でもこうした偶有性の要素はいろいろなところにちりばめている。
どんなところかというと、例えば、トイノバで選ばれる候補となる「問い」については参加者の経験談や価値観がでやすいような「問い」をかなり意識している。
経験談や価値観がでるとなにがいいのかというと、それは自己開示がすすむという意味でいいのだ。
なぜなら、人は自分と価値観が似たような人に惹かれる性質があるので、価値観が明らかになると「この人とはなにかできそうだ」とか「この人とはつながっていきたいな」みたいなことが起こりやすいのでは?と思うから。
また、トイノバ終了後にそれぞれの参加者がやっている活動でPRしたいことがあればPRしてもらう時間を設けている。それがなにかが生まれるキッカケになったりするとうれしいかなと意図している。これもまた、よい偶有性が起こることを意識した時間である。
カノバのかかわる場では、これからも「偶有性」を意識した場づくりをしていきたい。
(チームカノバ・岡崎)